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リトアニア共和国、通称リトアニアは、ヨーロッパ北東部の共和制国家である。バルト海に面して並ぶバルト三国の内の一つであり、北にラトビア、東にベラルーシ、南にポーランド、南西にロシア(カリーニングラード州)と国境を接し、西はバルト海に面している。首都はヴィリニュス。 20世紀半ばからソビエト連邦内の一共和国となっていたが、1990年に独立を回復し、2004年5月1日に欧州連合に加盟した。
国名正式名称は、Lietuvos Respublika (リトアニア語: リェトゥヴォス・レスプブリカ) 。通称は、Lietuva (リェトゥヴァ)。 公式の英語表記は、Republic of Lithuania。通称は、Lithuania(リスエイニア)。 日本語の表記は「リトアニア共和国」で、通称「リトアニア」。一部「リトワニア」、「リスアニア」[3]、「リトアニヤ」[4]という表記も見られる。 ソビエト連邦構成共和国であった時代の国名は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」であった。 歴史詳細は「リトアニアの歴史」を参照 歴史的な文書に最初に登場するのは1009年で、リトアニアは中世において重要な国の一つになった。13世紀、東ヨーロッパへのドイツ騎士団の植民とそれに伴うキリスト教化の試みは失敗し、独立したリトアニア大公国が生まれ、やがて東ヨーロッパ一帯に領土を広げる大国となった。キリスト教化はのちに個人的な結びつきがきっかけで平和的に実現され、14世紀にはリトアニア大公ヨガイラがポーランド王を兼ねたためポーランド・リトアニア合同を形成し、1569年以降はルブリン連合として合同しポーランド・リトアニア共和国(ジェチポスポリタ)が成立した。この国は1795年の第3次ポーランド分割によってロシア帝国に併合された。 ロシア革命の余波が及んでいた1918年2月、ドイツの計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環として、以前より小さいながらも独立したリトアニア王国が立てられた。その後、第一次世界大戦でドイツが敗北すると、同年11月リトアニア共和国となった。リトアニア共和国は、4世紀に渡る連合を解消し、ポーランド(リトアニア東部・南部地域)やドイツ(クライペダ地方)との領土問題で争いつづけた。1926年には独裁制に移行している。第二次世界大戦中の1940年、ソビエト連邦によって併合された。日本の在リトアニア・カウナス総領事館の杉原千畝がユダヤ人を助けたのはこの頃である。 1986年以降、ソビエト連邦のペレストロイカにより共産党政権は終結し、1990年3月11日、旧ソ連を構成していた15の共和国の中でもっとも早く、ヨアヒム・フォン・リッベントロップの独ソ不可侵条約の密約の無効を宣言し独立回復宣言をした。国内に他民族(主にロシア人)が少なかったことが、国内意見の集約を容易にさせた側面があるとされる。独立後は、エストニアやラトビアとは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件で国籍をあたえた。その後、西欧諸国との結びつきを強めており、2004年3月29日にはNATOに加盟し、さらに5月1日には欧州連合(EU)へ加盟した。 2009年5月17日、大統領選が行われ、欧州連合の財政計画・予算担当欧州委員を務めるダリア・グリバウスカイテ元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性大統領に選出された。 政治詳細は「リトアニアの政治」を参照 欧州連合加盟国であり、NATOにも加盟している。一方で、旧ソ連の連邦構成共和国でありながらも、CISには加盟していない。 大統領を国家元首とする共和制国家であり、大統領は5年任期で直接選挙によって選ばれる。また外交や防衛方針の策定にも加わり、それらを指揮する職務も担う。また、大統領は、議会の承認を得て、首相や他の閣僚を任命する。他にも官僚や憲法裁判所の裁判官も任命する。 議会は「セイマス」(Seimas)と呼ばれる一院制であり、141議席を有し、4年任期で選挙により選ばれる。このうち71議席は小選挙区直接選挙により、70議席は全国比例代表制により選出される。議会に議員を送り込むには、政党は少なくとも全投票の 5 % を、連立政党は 7 % を獲得しなければならない。 地方行政区分詳細は「リトアニアの地方行政区画」を参照 行政区分行政区分は10の州 (apskritis) に分けられており、それぞれに州庁のある市の名前が付けられている。さらに州は全部で56の地方自治体(市や地区)に分割される。 これらの行政上の区分は1994年に行われた。
文化的区分なお、行政区分とは別に、文化的な観点から5つの地方に分けられる。
主要都市
地理リトアニア共和国はバルト三国の中でもっとも大きな国である。 およそ 100 km の砂の海岸が広がり、その内の 38 km がバルト海に面している。主な不凍港はクライペダ港で、クルシュー砂州の狭い入り口にある。その浅瀬はカリーニングラードに向かって南に広がっている。国内最大の河川であるニャムナス川(ネマン川)とその支流は、国際運河ともなっている。 国土は、氷堆石による丘を除けば、なだらかに平坦である。丘は西と東の方で高台となっており、最も高い地点でも292mしかない。ヴィスティティス湖など多くの湖と低湿地帯があり、混交湿地林が国土の約 30 % を覆っている。 気候海洋性気候と大陸性気候の中間であり、湿度が高い。気候は西部と東部で多少異なり、西部は涼しい夏と余り冷え込まない冬があるのに対し、東部は寒暖の差が激しい。 経済リトアニアを含めたバルト三国の貿易相手は、ほとんどロシアである(2006年、輸出の 12.7 % 、輸入の 24.4 % が対ロシアだった)。1998年のロシアの経済危機で落ち込んだ時期もあったが、回復しつつある。2001年の失業率は 12.5 % と高く、また国内の消費も低かったが、それらも好転してきた。2005年2月の失業率は 6.1 % である。 2003年、リトアニアはEU圏内の国で最も高い経済成長率(第3四半期で 8.8 % )を記録した。西欧諸国との貿易を拡大し、世界貿易機関(WTO)の一員ともなった。2004年に欧州連合(EU)に加盟。国有企業、特にエネルギー部門におけるそれの大規模な民営化が開始されており、現在も進行中である。 現行通貨であるリタスは2002年2月2日より欧州為替相場メカニズムに組み込まれており、対ユーロでの変動幅が制限されている。将来的にはユーロへの移行が目指されている。 リトアニアは鉱物資源に全く恵まれていない。唯一採掘されているのは原油であるが、2002年時点の採掘量は43万トンに留まる。近年は天然ガスの採掘も有望視されている。 国民民族構成を見てみると、人口の 83.45 % が、リトアニア人である。少数派として、ポーランド人(6.74 %)、ロシア人(6.31 %)、ベラルーシ人(1.23 %)、ウクライナ人(0.65 %)などがいる[5]。 また、中世にヨーロッパ各地からユダヤ人を受け入れたために、リトアニアの都市部にはユダヤ人が多く、その中でも特にヴィリニュスはユダヤ人らから「北のエルサレム」と呼ばれるほど[6]多くのユダヤ人が住んでいた。18世紀末の時点で約25万人のユダヤ人がかつてのリトアニア大公国の土地に住んでいた[7]。しかし、第二次世界大戦中のナチス・ドイツと、その後のソ連支配の時代の弾圧によりユダヤ人人口は大きく減少した[8]。 国の自殺率順リストから見ても明らかなように、リトアニアの自殺率は世界で最も高い。自殺率が世界ワースト1となったことを受け、市内のあちらこちらに自殺防止の広告が貼ってある。[要出典] 言語リトアニア語は、ラトビア語と共に現存している2つのインド・ヨーロッパ語族バルト語派の1つであり、リトアニアの公用語にもなっている。2001年国勢調査によると母国語話者の内訳はリトアニア語84%、ロシア語8.2%、ポーランド語5.8%である。人口の60%がロシア語を流暢に話すことができる。 また、少数民族によりロシア語、ポーランド語、ベラルーシ語、カライム語なども話されている。[要出典] 宗教詳細は「リトアニアの宗教」を参照 リトアニアの宗教は現在ローマ・カトリックが大勢を占め、他の宗教は少数となっている。しかし歴史的には多くの宗教が信奉されてきた。もともと現在のリトアニアにあたる地域はバルト人の土地であり、彼らは独自の多神教信仰を持っていた。しかしその後キリスト教が徐々にリトアニアに入ってくるようになった。農民層が中心のリトアニア人にカトリックが浸透するのは16世紀頃と言われている[9]。 中世のリトアニア大公国は現在のリトアニアのほかベラルーシやウクライナの大半を含む広い領土を支配しており、主にスラヴ人が住んでいた東部地域では正教を信じる者も多くいた。また大公国ではそのほかイスラム教やユダヤ教の信仰なども広く認められてきた。 その後ロシア帝国支配下ではカトリックの弾圧が行われ、またソ連に支配されると宗教そのものが否定されるに至った。リトアニアが独立を回復してからは信仰が再び認められるようになり、現在ではヨーロッパでも有数のカトリックの国として知られている。 教育初等・中等教育リトアニアでは、464,638人の生徒が初等・中等教育(7〜16歳児が対象)を受けている(2008-09年)。これらの教育はリトアニア語で行われるものが多く、全体の92.4%(429,335名、2008-09年)の生徒がリトアニア語で学ぶ。その他の言語で学ぶ生徒の割合は、ロシア語が4.2%(19,676名、2008-09年)、ポーランド語が3.2%(15,064名)と続く。ほかにも、伝統的にベラルーシ語で教育を行う学校が1校あるほか、近年フランス語で行う学校も1校設立された。英語による学校も1校存在する[10]。 外国語教育で最も一般的なのは英語で、約407,700人が学んでいる(2008年-09年)[10]。次いでロシア語(約186,500人)、ドイツ語(約59,900人)、フランス語(約12,800人)と続く[10]。 高等教育詳細は「リトアニアの大学の一覧」を参照 主な高等教育機関としては大学などが挙げられ、約144,300人の学生が国内に22ある大学に在籍している(2007年9月現在)[11]。ヴィリニュス大学(VU、1579年設立)、カウナス工科大学(KTU、1922年)、カウナス医科大学(KMU、1922年)、ヴィータウタス・マグヌス大学(VDU、1922年)などがその代表例である。 大学・短大では経営学を学ぶ者が最も多く、次いで教育学、工学、法学、保健学、社会学・行動科学、建築学、コンピュータと続く。近年経営学を学ぶ学生数が急増しており、2004年の学生数は2000年の約3倍となった[12]。 修士課程においても経営学を学ぶ学生が最も多く、次いで法学、教育学、工学、社会学・行動科学、保健学と続く[12]。 留学生が占める割合は非常に少なく、全体の約0.4%にすぎない。そのうち約6割はヨーロッパ諸国からの留学生で[12]、とりわけベラルーシからの留学生が特に多い[11]。アジアからの留学生は約3割となっている[12]。 文化住居かつてリトアニア人は農民層に多かったが、現在では多くが都市に進出しており、大半がアパートで暮らしている。国民の 59 % がアパートに住んでおり、次いで 32 % が一戸建て住宅、9 % が半一戸建て住宅に住む[13]。 食文化詳細は「リトアニア料理」を参照 文学詳細は「リトアニア文学」を参照 音楽詳細は「リトアニアの音楽」を参照 絵画詳細は「リトアニアの絵画」を参照 世界遺産リトアニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件ある。詳細は、リトアニアの世界遺産を参照。
スポーツ詳細は「リトアニアのスポーツ」を参照 古くからバスケットボールが盛んであり、リトアニアで最も盛んなスポーツとなっている。ソ連時代ではシャルーナス・マルチルリョーニス、アルビダス・サボニスら中心選手を輩出しソウルオリンピックで男子代表は金メダルを獲得するなど数多くの世界大会で実績を残している。マルチルリョーニス、サボニスはNBAにも所属した。 著名な出身者詳細は「リトアニア人の一覧」を参照 脚注
参考文献関連項目外部リンク
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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